岩瀬忠震(いわせ ただなり)

2022/02/17

2025年 東京都 武士

解説

[1818~1861]江戸時代後期の武士。文政元年11月21日生まれ。嘉永7年老中阿部正弘に重用され目付となる。開明派の幕臣として海防・外交の第一線で活躍。安政5年日米修好通商条約に調印。反井伊直弼派であったため翌年免職、禄をうばわれ差控の処分をうけた。文久元年7月11日死去。44歳。本姓は設楽。字は善鳴。通称は忠三郎、修理。号は百里、蟾洲、鴎所。

お墓

場所:雑司ヶ谷霊園(東京都豊島区南池袋4-25-1)(1種1号8側)
墓正面:従五位下肥後守爽恢岩瀬府君之墓 撮影:2025年

コラム

日米修好通商条約の交渉に深く関わった岩瀬忠震。その最期の眠りの場所には、興味深い歴史が刻まれています。

森篤男の『横浜開港の恩人岩瀬忠震』(1982年)が明かすところによると、岩瀬忠震の墓はもともと東京都文京区の蓮華寺にありました。しかし明治42年(1909年)11月、市区改正のため移転が余儀なくされ、その眠りの場所は雑司ヶ谷霊園へと移されることになったのです。墓域には「従五位下肥後守爽恢岩瀬府君之墓」、「淡順院殿忠正日寧大居士」、「巖瀨氏奕世之墓」と3つの墓が並んでいます。

興味深いのは、養父である岩瀬忠正が800石の旗本でありながら「淡順院殿忠正日寧大居士」という院殿大居士の戒名を有していることです。「巖瀨氏奕世之墓」に刻まれた文によると、忠震の死後は養子の忠升が継いだものの、子はなく断絶したと記されています。そして最後に「明治四十二年十一月 甥本山漸謹記」とあることから、岩瀬家断絶後も、甥である本山漸が改葬を実施したと推測されます。『適塾 (26)』(1993年)が記すところによると、この本山漸は忠震の娘である吉子と結婚し、幕府の軍艦奉行組で海軍術を学び、維新後は海軍に出仕した人物でした。

これにより、家名は断絶したものの、娘婿の深い敬愛によって改葬が成し遂げられたという事実が、ついに幕末の開国交渉に尽力した外交官の功績とともに永遠に語り継がれることになったのです。

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東京都在住の40代男性です。2005年から墓マイラーを始めました。

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