公式情報だけでは分からない全貌
増上寺の公式ホームページには、徳川将軍家ゆかりの38人が眠っているとの記載があります。しかし、その具体的な内容を見ると、興味深い点が浮かび上がります。当山に埋葬されているのは、2代秀忠、5代将軍兄弟の綱重、6代家宣、7代家継、9代家重、12代家慶、14代家茂の6人の将軍の他、女性では将軍正室として2代秀忠夫人崇源院、6代家宣夫人天英院、11代家斉夫人広大院、13代家定夫人天親院、14代家茂夫人静寛院の5人、将軍の側室としては3代家光の桂昌院、6代家宣の月光院など5人、その他、将軍の子女を含む計38人です。
この説明を読むと、「など5人」「その他...計38人」という曖昧な表現が使われています。38人の詳細な名簿は公表されていないのが現状です。
この曖昧さの背景には、昭和33年(1958年)の改葬があります。戦前は個別の墓が存在していましたが、改葬により8基の墓に合祀されたため、墓石から個別の名前を確認することができなくなりました。そのため、38人の詳細は史料の中に求めるほかありません。
史料調査による38人の詳細
各種史料を調査した結果、38人の内訳を以下のように推定いたします。将軍6人、正室5人、側室10人、子女17人という構成になります。将軍(6人)
歴代15人の将軍のうち、増上寺に眠るのは以下の6人です。残りの6人は上野の寛永寺、2人は日光、1人は谷中に眠っています。この分散配置も徳川家の歴史を考える上で興味深い点です。- 徳川秀忠(2代将軍)
- 徳川家宣(6代将軍)
- 徳川家継(7代将軍)
- 徳川家重(9代将軍)
- 徳川家慶(12代将軍)
- 徳川家茂(14代将軍)
正室(5人)
将軍の妻として江戸城大奥の頂点に立った女性たちです。14代将軍家茂の正室となった和宮は、皇室から武家への政略結婚により、激動の幕末を生きました。- 崇源院 お江の方(2代将軍秀忠正室)
- 天英院 近衛熙子(6代将軍家宣正室)
- 広大院 近衛寔子(11代将軍家斉正室)
- 天親院 鷹司任子(13代将軍家定正室)
- 静寛院 和宮親子内親王(14代将軍家茂正室)
側室(10人)
ここで注目すべき点があります。増上寺の公式情報では側室を「5人」としていますが、史料調査では「10人」という結果になります。この相違の理由については、さらなる検証が必要です。特に注目されるのは桂昌院(お玉の方)です。身分の低い出自から5代将軍綱吉の生母となった女性として歴史に名を残しています。また、12代将軍家慶の側室が6人含まれていることも特徴的です。
- 桂昌院 お玉の方(3代将軍家光側室・5代将軍綱吉生母)
- 月光院 お喜世の方(6代将軍家宣側室)
- 瑞春院 お伝の方(5代将軍綱吉側室)
- 勢真院 お満武の方(11代将軍家斉側室)
- 見光院 お金の方(12代将軍家慶側室)
- 殊妙院 お筆の方(12代将軍家慶側室)
- 清涼院 お定の方(12代将軍家慶側室)
- 香共院 お波奈の方(12代将軍家慶側室)
- 妙音院 お琴の方(12代将軍家慶側室)
- 秋月院 お津由の方(12代将軍家慶側室)
子女(17人)
将軍家の子どもたちです。江戸時代の医療技術では、将軍の子どもであっても幼くして亡くなることが多く、特に11代将軍家斉や12代将軍家慶の子どもたちが多数含まれています。- 秋徳院 徳川長丸(2代将軍秀忠長男)
- 清揚院 徳川綱重(3代将軍家光三男)
- 霊仙院 千代姫(3代将軍家光長女)
- 浄徳院 徳川徳松(5代将軍綱吉長男)
- 明信院 鶴姫(5代将軍綱吉長女)
- 孝順院 徳川竹千代(11代将軍家斉長男)
- 俊岳院 徳川虎千代(11代将軍家斉九男)
- 清湛院 淑姫(11代将軍家斉長女)
- 麗玉院 綾姫(11代将軍家斉三女)
- 泰明院 泰姫(11代将軍家斉二十七女)
- 玉樹院 徳川竹千代(12代将軍家慶長男)
- 璿玉院 徳川嘉千代(12代将軍家慶次男)
- 照耀院 (12代将軍家慶十一男)
- 瑞岳院 徳川田鶴若(12代将軍家慶十二男)
- 蓮玉院 若姫(12代将軍家慶十一女)
- 輝光院 鋪姫(12代将軍家慶十三女)
- 観行院 橋本経子(14代将軍家茂正室生母)
推定の確実性と課題
この推定において、33人についてはほぼ確実であると考えられます。これらの人物は昭和33年改葬時の報告書に明記されているためです。しかし、残りの5人については、史料上の記載が不明確であり、確証が不十分な状況です。史料上の記載が不明確な5人
- 霊仙院 千代姫(3代将軍家光長女)
- 明信院 鶴姫(5代将軍綱吉長女)
- 俊岳院 徳川虎千代(11代将軍家斉九男)
- 清湛院 淑姫(11代将軍家斉長女)
- 泰明院 泰姫(11代将軍家斉二十七女)
これら5人については、改葬報告書に明確な記載がありません。しかし、以下の根拠により、38人に含まれるものと推定いたします。
根拠1:総数の整合性
史料によると、増上寺には歴史的に40人が埋葬されました。しかし、以下の2人は昭和33年以前に他所へ移転しています。- 性高院 松平忠吉(初代将軍家康四男) → 慶長15年(1610年)に性高院へ改葬
- 孝盛院 盛姫(11代将軍家斉十八女) → 明治5年に賢崇寺、平成11年(1999年)に春日山墓地へ改葬
したがって、40人-2人=38人という計算になります。
根拠2:他家への婚姻による記録の複雑性
史料上の記載が不明確な5人には共通する特徴があります。全員が他家に嫁いだか養子に出された人物である点です。改葬報告書で記載が不明確になったのは、徳川家の一員でありながら他家の人でもあるという複雑な立場が影響した可能性があります。5人の婚姻先
- 霊仙院 千代姫 → 尾張徳川家
- 明信院 鶴姫 → 紀州徳川家
- 俊岳院 徳川虎千代 → 紀州徳川家
- 清湛院 淑姫 → 尾張徳川家
- 泰明院 泰姫 → 鳥取池田家
今後の研究課題
この推定の正確性については、今後の史料発見や研究の進展によって検証される必要があります。また、増上寺の公式情報における側室の人数についても、より詳細な調査と検証が求められます。まとめ
増上寺に眠る徳川将軍家ゆかりの38人について、史料調査に基づく推定を行いました。33人についてはほぼ確実な根拠がありますが、5人については今後の研究による検証が必要な状況です。増上寺の徳川将軍家墓所は常時拝観可能です(大人500円)。江戸時代から続く将軍家の歴史を感じながら、ぜひ一度足を運んでいただければと思います。歴史研究の奥深さとともに、まだ解明されていない謎の存在を実感していただけることでしょう。
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