失われた個別の墓石を求めて
増上寺の徳川将軍家墓所は、現在8基の墓に集約されています。6人の将軍、和宮(14代将軍家茂正室)、そして1つの合祀塔です。しかし、実際には38人もの人々がここに眠っているのです。
合祀塔に眠る31人の方々は、かつてどのような墓石を持っていたのでしょうか。今回は、明治初期に撮影された古写真から、失われた墓石の姿を読み解いていきます。
明治初期の貴重な記録
明治の黎明期、激動の時代の狭間で、増上寺に眠る徳川将軍家の墓所が写真に収められました。昭和20年(1945年)の戦災で多くの霊廟が焼失し、昭和33年(1958年)の改葬で個別の墓が統合された今、その姿を知る手がかりは古写真の中にしか残されていません。
当時、写真撮影はまだ珍しい技術でした。それでも、あるいはだからこそ、これらの墓所は丁寧に撮影され、記録として残されました。徳川家の栄華を物語る霊廟群の姿を、後世に伝えようとする意図があったのかもしれません。
これらの貴重な古写真は、現在ColBase(国立文化財機構所蔵品統合検索システム)で公開されています。誰でも閲覧することができるのですが、驚くべきことに、その多くにタイトルが付されておらず、誰の墓であるかも判然としていません。
かつて存在した墓石の数々。今は失われたそれらの主を、果たして古写真から読み解くことはできるのでしょうか。石に刻まれた文字、背景に写り込んだ風景、そして塀や樹木の配置——わずかな手がかりを頼りに、墓所の特定に挑戦してみました。
墓石の銘文から特定できた人物
幸いなことに、画像を拡大すると墓石に刻まれた文字が判読できる写真がいくつかありました。デジタル化された画像の利点は、細部まで拡大して観察できることです。肉眼では読み取れないような小さな文字も、画像処理によって浮かび上がってくることがあります。このような現代技術のおかげで、明治の写真から新たな情報を引き出すことができるのです。
秋徳院 徳川長丸(2代将軍秀忠長男)
 |
出典:ColBase |
写真のタイトルには「増上寺秋徳院長丸墓」とありますが、タイトルを鵜呑みにせず、まずは画像を拡大して確認してみました。すると、墓石に「慶長七」「九月廿五日」という文字が刻まれているのが分かります。これは秋徳院の没年月日と完全に一致しており、間違いありません。墓石は、徳川将軍家には珍しい宝篋印塔です。
契真院 お満武の方(11代将軍家斉側室)
 |
出典:ColBase |
墓石に「契真院殿」という文字がはっきりと刻まれているのが確認できました。なお、この墓石は戦後、東京都清瀬市の長命寺に移転され、現在も現存しています。写真の中の姿と現在の姿を見比べることができる、貴重な例です。墓石は五輪塔です。家斉以降の側室には位牌型の墓石が多く見られますが、契真院は長男・竹千代の生母という特別な立場であったため、五輪塔が用いられたと考えられます。
孝盛院 盛姫(11代将軍家斉十八女)
 |
出典:ColBase |
墓前の門に一部隠れてしまっていますが、墓石に「盛院殿」「誉順和」の文字を読み取ることができました。戒名は「孝盛院殿天誉順和至善大姉」ですので、一致します。盛姫は佐賀藩10代藩主・鍋島直正の正室となった方です。明治5年(1872年)に夫が埋葬された賢崇寺へ、さらに平成11年(1999年)には春日山墓地へと改葬されました。つまり、この写真は盛姫の墓が増上寺にあった時代に撮影された、改葬前の貴重な記録ということになります。
見光院 お金の方(12代将軍家慶側室)
 |
出典:ColBase |
残念ながら、この写真では文字の判別ができません。しかし、『鹿鳴館秘蔵写真帖』に掲載されている同じ写真を見ると、「見光院」の文字が確認できます。別の資料と照らし合わせることで、ようやく正体が分かった墓石です。墓石は、家斉以降の側室に多い位牌型です。
殊妙院 お筆の方(12代将軍家慶側室)
 |
出典:ColBase |
こちらも写真単体では文字の判別ができませんが、『鹿鳴館秘蔵写真帖』の同一写真では「殊妙院」の文字が確認できます。また、写真のタイトルが「増上寺殊妙院於筆墓」となっていることからも、間違いないでしょう。
璿玉院 徳川嘉千代(12代将軍家慶次男)
 |
出典:ColBase |
墓石に「俊山」という文字が読み取れます。戒名は「璿玉院殿俊山嘉光大童子」ですので、一致します。この墓で注目したいのは、将軍家の他の子女とは明らかに異なる特別な形をしている点です。嘉千代は、長男・竹千代が亡くなってから5年後に生まれた待望の男児で、世子として扱われていたと推測します。その特別な地位が、墓の形にも表れているのでしょう。
照耀院(12代将軍家慶十一男)
 |
出典:ColBase |
墓石に「光月明」の文字が確認できました。戒名は「照耀院殿光月明顕大童子」ですので、一致します。この墓石も、契真院と同じく長命寺に移され、今日まで守られています。増上寺から離れた場所で、静かに眠り続けているのです。墓石は、将軍家の子女に多い五輪塔です。
瑞岳院 徳川田鶴若(12代将軍家慶十二男)
 |
出典:ColBase |
墓石に「光」「幻」の文字が刻まれているのが分かります。戒名は「瑞岳院殿瑩光如幻大童子」ですので、一致します。こちらの墓石も照耀院と同じく長命寺に移転され、現存しています。兄弟が同じ場所で再び隣り合わせになっているのは、偶然なのか、それとも意図的な配置なのか、興味深いところです。
風景から推定した人物
墓石の文字が読めない場合は、どうすればよいのでしょうか。そこで注目したのが、写真に写り込んだ「風景」です。古い地図と照らし合わせながら、写真の背景を丁寧に観察していくと、意外な発見があります。当時の墓域の配置、建物の位置関係、植栽の様子——これらすべてが、特定のヒントになるのです。
麗玉院 綾姫(11代将軍家斉三女)
 |
出典:ColBase |
 |
出典:国書データベース |
この五輪塔の形は、将軍家の子女によく使われているもので、似たような写真が数多く残されています。ところが、この写真だけは背景の風景が他と違うように感じられるのです。よく見ると、木々の生い茂り方や塀の模様が、先ほど特定した秋徳院・徳川長丸の写真と非常に似ています。古い地図で確認してみると、秋徳院と麗玉院は同じ墓域に位置していました。同じ墓域にあれば、背景の風景が似ているのは当然のことです。これらの理由から、麗玉院・綾姫の墓と判断しました。
玉樹院 徳川竹千代(12代将軍家慶長男)
 |
出典:ColBase |
 |
出典:ColBase |
 |
出典:TOKYOアーカイブ |
写真の背後に、建物の屋根が写っています。この屋根の形が、別の写真に写っている経蔵の屋根とよく似ているのです。屋根の反り具合、瓦の並び方、棟の形状——これらを比較すると、同じ建物であることがほぼ確実です。ということは、この墓は経蔵を背にする位置にあったと考えられます。また、墓の形状が他の子女とは異なる特別なものである点も重要です。これは世子の墓にふさわしい格式と言えるでしょう。以上の根拠により、玉樹院・徳川竹千代の墓と特定できます。
蓮玉院 若姫(12代将軍家慶十一女)
 |
出典:ColBase |
 |
出典:TOKYOアーカイブ |
背景に見える塀や、木で作られたような柵の様子が、照耀院と瑞岳院・徳川田鶴若の写真と似ています。塀の高さ、柵の間隔、背後の樹木——これらを注意深く観察すると、確かに共通する要素が見つかります。古い地図で確認してみると、照耀院、瑞岳院、蓮玉院は同じ墓域に位置していました。風景の一致から、蓮玉院・若姫の墓と考えられます。
古写真が語る歴史の重み
今回、古写真から墓石の特定を試みることで、改めて気づかされることがありました。それは、一枚の写真が持つ情報の豊かさです。
例えば、璿玉院の写真では、撮影者は墓石を記録しようとしただけでしょう。しかし、意図せず写り込んだ特別な墓の形状が、この人物が世子として特別な扱いを受けていたことを150年後の私たちに伝えているのです。麗玉院の写真では、背景の塀の模様や樹木の配置が、秋徳院との位置関係を示す決定的な手がかりとなりました。また、墓石に刻まれた戒名や没年月日という、わずかな文字情報が、どれほど重要かということも実感しました。これらの情報があるからこそ、私たちは歴史上の人物と墓石を結びつけることができるのです。
増上寺の徳川将軍家墓所は、現在8基に集約されています。しかし、古写真を通して当時の姿を垣間見ることで、そこに眠る一人ひとりの存在をより身近に感じることができます。将軍として君臨した人々、将軍を支えた正室や側室たち、そして幼くして亡くなった多くの子どもたち——それぞれに個別の墓石があり、それぞれの人生があったのです。
まとめと今後の展望
今回の調査では、墓石の銘文から8名、風景の比較から3名、合計11名の墓所を特定することができました。38人中11人という数字は、決して多いとは言えません。しかし、これらの特定により、当時の墓域の様子や墓石の形式について、新たな知見を得ることができました。
これからも古写真の分析を続けていき、新しい発見があれば報告していきたいと思います。また、読者の皆様の中で、もし増上寺の古写真について何か情報をお持ちの方がいらっしゃいましたら、ぜひお知らせください。歴史研究は、一人で完結するものではありません。多くの人々の知識や情報が集まることで、新たな真実が明らかになることもあります。失われた墓石の謎を解く旅は、まだ始まったばかりなのです。
増上寺の徳川将軍家墓所は常時拝観可能です(大人500円)。現在の8基の墓を訪れる際には、ぜひこの記事で紹介した古写真のことを思い出してください。目の前の合祀塔の中に、かつては個別の墓石を持っていた人々が眠っています。その一人ひとりの姿を、古写真を通して想像することで、歴史はより豊かなものになるでしょう。江戸時代から明治、昭和、そして令和へ——時代を超えて受け継がれてきた記憶を、これからも大切にしていきたいものです。
0 件のコメント:
コメントを投稿