現在の墓所が質素な理由
増上寺の徳川将軍家墓所を訪れると、その規模の小ささに驚かれる方も多いでしょう。徳川将軍家の菩提寺としては、あまりにも質素に見えるかもしれません。しかし、この現在の姿には深い歴史的背景があります。現在目にしている墓所は、昭和33年(1958年)に改葬されたものです。かつてこの地には、日光東照宮に匹敵するほど壮大な霊廟群が存在していました。しかし、昭和20年(1945年)の戦災により、その美しい建造物群は焼失してしまったのです。
現在の東京プリンスホテルやザ・プリンス パークタワー東京がある一帯に、金箔で装飾された巨大な霊廟が立ち並んでいたと想像すると、当時の壮麗さが偲ばれます。それは江戸時代から昭和初期まで、約300年間にわたって威容を誇っていました。
戦後復興期の改葬
戦災で失われた霊廟群の復興には莫大な費用が必要でした。戦後復興の中で、増上寺は現実的な選択として、8基の墓に集約する方法を選択しました。現在の墓所構成
- 徳川秀忠(2代将軍)
- 徳川家宣(6代将軍)
- 徳川家継(7代将軍)
- 徳川家重(9代将軍)
- 徳川家慶(12代将軍)
- 徳川家茂(14代将軍)
- 和宮(14代将軍正室)
- 合祀塔
注目すべきは、2代将軍秀忠の墓が戦災で焼失したため、正室の崇源院の墓に合葬されたことです。また、合祀塔には6代将軍家宣の側室である月光院の墓が転用されています。
戦前の霊廟群の全貌
昭和33年の改葬報告書によると、戦前の霊廟群には南廟・北廟・北廟奥側に分けて、合計33名が埋葬されていました。南廟の人々(11名)
南廟は主に12代将軍家慶とその一族が眠る場所でした。江戸時代の将軍家では、多くの子どもたちが幼くして亡くなっており、その現実がここに表れています。- 台徳院 徳川秀忠(2代将軍)
- 清揚院 徳川綱重(3代将軍家光三男)
- 勢真院 お満武の方(11代将軍家斉側室)
- 見光院 お金の方(12代将軍家慶側室)
- 殊妙院 お筆の方(12代将軍家慶側室)
- 玉樹院 徳川竹千代(12代将軍家慶長男)
- 璿玉院 徳川嘉千代(12代将軍家慶次男)
- 照耀院 (12代将軍家慶十一男)
- 瑞岳院 徳川田鶴若(12代将軍家慶十二男)
- 蓮玉院 若姫(12代将軍家慶十一女)
- 天親院 鷹司任子(13代将軍家定正室)
北廟の人々(16名)
北廟は徳川家の中心的な墓域でした。初期の将軍たちから幕末の家茂・和宮夫妻まで、徳川家の歴史がここに凝縮されています。特に興味深いのは、5代将軍綱吉の生母として知られる桂昌院(お玉の方)がここに眠っていることです。身分の低い出自から将軍の母へと昇り詰めた、江戸時代を代表する女性の一人です。
- 崇源院 お江の方(2代将軍秀忠正室)
- 秋徳院 徳川長丸(2代将軍秀忠長男)
- 桂昌院 お玉の方(3代将軍家光側室・5代将軍綱吉生母)
- 瑞春院 お伝の方(5代将軍綱吉側室)
- 浄徳院 徳川徳松(5代将軍綱吉長男)
- 文昭院 徳川家宣(6代将軍)
- 天英院 近衛熙子(6代将軍家宣正室)
- 月光院 お喜世の方(6代将軍家宣側室)
- 有章院 徳川家継(7代将軍)
- 惇信院 徳川家重(9代将軍)
- 慎徳院 徳川家慶(12代将軍)
- 広大院 近衛寔子(11代将軍家斉正室)
- 孝順院 徳川竹千代(11代将軍家斉長男)
- 麗玉院 綾姫(11代将軍家斉三女)
- 昭徳院 徳川家茂(14代将軍)
- 静寛院 和宮親子内親王(14代将軍家茂正室)
北廟奥側の人々(6名)
北廟奥側の6名については、なぜ他の人々と離れた場所に埋葬されたのか、その理由は明確ではありません。- 清涼院 お定の方(12代将軍家慶側室)
- 香共院 お波奈の方(12代将軍家慶側室)
- 妙音院 お琴の方(12代将軍家慶側室)
- 秋月院 お津由の方(12代将軍家慶側室)
- 輝光院 鋪姫(12代将軍家慶十三女)
- 観行院 橋本経子(14代将軍家茂正室生母)
複数回にわたる墓所の移転
詳しい調査により、実は一部の墓所は昭和33年の大改葬以前にも移転していたことが判明しました。昭和7年(1932年)の移転
「増上寺山内一円ノ図」によると、以下の3名は昭和7年に本堂裏側から移転していました。この時期の移転は、おそらく増上寺の敷地整理や建物建設に関連していたと考えられます。- 瑞春院 お伝の方(5代将軍綱吉側室)
- 浄徳院 徳川徳松(5代将軍綱吉長男)
- 孝順院 徳川竹千代(11代将軍家斉長男)
金地院周辺からの移設
北廟奥側の6名のうち3名については、増上寺の裏手にある金地院周辺に墓所があったとされています。なぜメインの墓域から離れた場所に埋葬されていたのか、その理由は現在も不明です。- 清涼院 お定の方(12代将軍家慶側室)
- 輝光院 鋪姫(12代将軍家慶十三女)
- 観行院 橋本経子(14代将軍家茂正室生母)
所在不明の墓所
最も謎に包まれているのが、以下の3名です。昭和33年の改葬時には確かに移転されているものの、それ以前の所在が全く分からないのです。- 香共院 お波奈の方(12代将軍家慶側室)
- 妙音院 お琴の方(12代将軍家慶側室)
- 秋月院 お津由の方(12代将軍家慶側室)
現代に受け継がれる歴史
戦災、復興、都市開発という時代の波に翻弄されながらも、徳川将軍家の人々は今もなお増上寺に眠り続けています。現在の質素な墓所の背景には、このような複雑な歴史があるのです。増上寺の徳川将軍家墓所を訪れる際には、ぜひこの歴史を思い起こしてください。目の前の8基の墓の向こうに、300年の時を超えて息づく人々の営みを感じ取ることができるでしょう。そして、まだ解明されていない謎の存在が、歴史研究の奥深さを物語っています。
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