板垣退助(いたがき たいすけ)

2016/09/21

2021年 政治家 東京都

解説

[1837~1919]幕末から明治時代の政治家。天保8年4月17日生まれ。土佐高知藩士。戊辰戦争で総督府参謀をつとめ、明治4年新政府の参議となる。6年征韓論をめぐって大久保利通らと対立し、西郷隆盛らとともに辞職。翌年民選議院設立建白書を提出。帰郷して立志社をおこし、自由民権運動を指導した。14年自由党を結成して総理。24年再結成された自由党の総理。29年第2次伊藤内閣の内相。31年大隈重信と隈板内閣をつくり、内相。伯爵。33年政界を引退し、社会改良運動につくした。大正8年7月16日死去。83歳。初姓は乾。

お墓

場所:品川神社裏(高源院)(東京都品川区北品川3-7-15)
墓正面:邦光院殿賢徳道圓大居士 撮影:2021年

コラム

自由民権運動の父として知られる板垣退助。その最期の眠りの場所には、興味深い歴史が刻まれています。

品川神社の社殿裏を通った先に、板垣退助の墓地があります。そのため、一部の資料では品川神社に墓があると紹介されることもありますが、神社に墓があるはずはありません。実際にここは、東海寺の塔頭寺院であった高源院の墓地だったのです。板垣退助は高源院に埋葬されましたが、関東大震災後、高源院本体は世田谷区へと移転することになりました。しかし、板垣退助の墓地のみがこの地に残され、現在もなお高源院の管理下にあるとされています。

興味深いのは、この墓域の家族構成と、板垣退助の壮大な葬儀の記録です。墓域には絹子(第4夫人)、清女(側室)、正実(4男)、六一(5男)、武生(長男鉾太郎の長男)、信武(祖父)らが静かに眠っています。石井代蔵の「土俵の修羅」(1978年)が記すところによると、葬儀は愛宕青松寺で執り行われ、板垣邸から青松寺までの道のりを関取三十数人が棺を担ぎ、その葬列の先導を務めたのは元横綱太刀山峯右エ門でした。まさに相撲を愛した政治家にふさわしい、異例の送別となったのです。

これにより、「板垣死すとも自由は死せず」の言葉を残した民権の巨人が、角力界の英雄たちに担がれて最後の別れを告げ、ついに高源院の旧墓地という静寂な場所で永遠の安息を得ることになったのです。

参考サイト

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