解説
[1838~1922]明治から大正時代の政治家。天保9年2月16日生まれ。肥前佐賀藩士大隈信保の長男。長崎でフルベッキに英学をまなぶ。維新後、明治政府の徴士参与職、外国官副知事、大蔵卿、参議などを歴任。秩禄処分、地租改正などを推進した。明治十四年の政変で官職を辞し、翌年立憲改進党を結成し、総裁。同年東京専門学校(現早大)を創立。21年第1次伊藤内閣、ついで黒田内閣の外相となり、条約改正にあたるが、反対派の来島恒喜に爆弾をなげつけられ右足をうしなう。31年板垣退助と憲政党を結成して日本初の政党内閣(隈板内閣)を組織。大正3年第2次内閣を組織して第一次大戦に参戦、4年には対華二十一ヵ条要求を提出した。大正11年1月10日死去。85歳。お墓
場所:護国寺(東京都文京区大塚5-40-1) 墓正面:従一位大勲位侯爵大隈重信墓 撮影:2022年 |
場所:龍泰寺(佐賀県佐賀市赤松町2-4) 墓正面:純誠院殿義海全功大居士 撮影:2019年 |
肖像
出典:国立国会図書館「近代日本人の肖像」 |