米倉昌尹(よねくら まさただ)

2021/10/04

2025年 大阪府 大名

解説

[1637~1699]江戸時代前期の大名。寛永14年生まれ。米倉昌純の長男。貞享元年家督をつぎ、元禄9年若年寄。1万石を領し武蔵金沢(神奈川県)にすむ。12年5000石の加増があり、下野(栃木県)皆川に陣屋をうつし、皆川藩主米倉家初代。1万5000石。元禄12年7月12日死去。63歳。

お墓

場所:蔵林寺(神奈川県秦野市堀山下1075)
場所:鳳林寺(大阪府大阪市天王寺区六万体町2-10)
墓正面:蔵林寺殿従五位下前丹州太守徳石道明大居士 撮影:2025年

コラム

皆川藩の初代藩主として知られる米倉昌尹。その最期の眠りの場所には、興味深い歴史が刻まれています。

米倉家のお墓は蔵林寺(神奈川県秦野市)にあったため、昌尹も蔵林寺に埋葬されました。その後の藩主たちは、3代の昌照と最後の藩主である昌言を除いては長谷寺(東京都港区)に埋葬されましたが、蔵林寺にはそれぞれの供養塔が作られていきました。しかし、遠く離れた鳳林寺(大阪府大阪市)にも昌尹の供養塔が建立されているのです。墓地前の解説が明かすところによると、3代の昌照が大坂城守衛の時に建立したとされています。

興味深いのは、なぜ祖父である昌尹の供養塔だけを建立したのかという謎です。父である2代の昌明の供養塔も建立してもよさそうに思われますが、そうはされませんでした。この謎を解く鍵は、生年にあるかもしれません。2代の昌明の生まれは延宝元年(1673年)、3代の昌照の生まれは天和3年(1683年)であり、父が10歳の時の子供ということになります。可能性としてはゼロではありませんが、昌照が実は初代の昌尹の子供とも考えられるのです。そうであれば、鳳林寺に実の父である昌尹の供養塔だけを建立したことにも説明がつきます。

これにより、大坂の地に建つ一基の供養塔が、江戸時代の複雑な家督相続の事情を物語る証として、ついに米倉家の隠された真実を永遠に問いかけることになったのです。

参考サイト

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