解説
[?~1845]江戸時代後期、徳川家斉の側室。文政元年小姓、2年中臈となる。1男1女を生んだ。上臈御年寄上座。江戸出身。お墓
場所:不明 |
場所:法養寺(東京都大田区池上1-19-25) 撮影:2012年 |
お墓(現在は撤去済み)
場所:寛永寺(東京都台東区上野桜木1-14-11) 撮影:2010年 |
関連人物
夫コラム
秋元茂陽の著書『徳川将軍家墓碑総覧』(2008年)によると、お瑠璃の方(青蓮院)の墓所に関する記録はなく、埋葬地は不明とされています。しかし、かつては寛永寺の境内に彼女の墓石が移転され、設置されていたことが確認されています。これにより、寛永寺に埋葬された可能性が高いと考えられます。一方で、寛永寺の塔頭である凌雲院などにあった徳川将軍家の墓は、昭和9年に改葬され、新設された徳川家墓に合祀されましたが、その墓にはお瑠璃の方の名前が刻まれていませんでした。このことから、寛永寺ではなく別の場所に埋葬されていた可能性も考えられますが、はっきりした結論には至らず、推測が堂々巡りしてしまいます。
ところが最近、お瑠璃の方の墓が凌雲院にあったことを示す資料を見つけました。「青蓮」の記載が確認できます。
出典:国書データベース |
出典:国書データベース |
凌雲院にお墓があったことが確認できましたので、昭和9年に他の徳川将軍家の墓と共に改葬されたと考えられます。しかし、なぜ改葬先の徳川家墓に彼女の名前が刻まれていないのでしょうか?
一つ目の理由としては、単純に名前を刻み忘れた可能性が考えられます。もう一つの理由としては、図で見ると、お瑠璃の方の墓が他の徳川将軍家の墓域の外側にあるように見えることが関係しているかもしれません。お瑠璃の方は尾張藩11代藩主・徳川斉温の生母であるため、徳川将軍家ではなく尾張徳川家として埋葬されていた可能性があります。同じ時期に尾張徳川家も各地で墓の改葬を行っていたため、彼女が尾張徳川家として定光寺に改葬されたと考えることもできるでしょう。
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