解説
[1867~1916]明治から大正時代の小説家、英文学者。慶応3年1月5日生まれ。松山中学、第五高等学校で英語教師をつとめ、明治33年文部省留学生としてイギリスに留学。36年母校東京帝大の講師となり「文学論」「十八世紀英文学論」を講じる。38年「ホトトギス」に発表した「吾輩は猫である」が好評を得、40年東京朝日新聞社に専属作家としてむかえられ、近代日本の知識人の自我をめぐる葛藤をえがいた作品をあらわす。正岡子規とまじわり、俳句や漢詩にしたしむ。門下には寺田寅彦、森田草平ら多数。大正5年12月9日死去。50歳。江戸出身。本名は金之助。作品に「坊つちやん」「草枕」「虞美人草」「三四郎」「それから」「門」「こゝろ」「明暗」など。お墓
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場所:雑司ヶ谷霊園(東京都豊島区南池袋4-25-1)(1種14号1側) 墓正面:文献院古道漱石居士 撮影:2025年 |
関連人物
妻コラム
明治文学の巨匠として知られる夏目漱石。その最期の眠りの場所には、興味深い歴史が刻まれています。東京都豊島区の雑司ヶ谷霊園に建つ漱石の墓石には、「文獻院古道漱石居士」「圓明院清操浄鏡大姉」と刻まれており、それぞれ漱石と妻の夏目鏡子であることがわかります。しかし、墓石裏の墓誌には五女・雛子の名前も刻まれており、3人の合葬墓であることが確認されています。松岡譲の著書『漱石先生』(1935年)が記すところによると、夏目漱石の埋骨式は1916年(大正5年)12月28日に行われました。
興味深いのは、同著に掲載されている当時の墓標の写真が「夏目金之助墓」と書かれたもので、現在の墓石とは全く異なることです。雛子は漱石よりも先に亡くなったため、現在の墓石が建立された際に合葬されたと考えられます。さらに注目すべきは、同著に記された事実です。3回忌に雑司ヶ谷霊園の別区画に新たな墓を建立し、改葬が行われたというのです。このことから、漱石は当初から雑司ヶ谷霊園に埋葬されていたものの、後に同霊園内で改葬が実施されたことが判明します。
これにより、文豪の墓が同じ霊園内で移転するという稀有な経緯を辿り、ついに現在の立派な墓石の下で家族とともに永遠の安らぎを得ることになったのです。
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