世良修蔵(せら しゅうぞう)

2022/03/15

2009年 宮城県 武士

解説

[1835~1868]幕末の武士。天保6年7月14日生まれ。長門(山口県)萩藩の奇兵隊書記、第二奇兵隊軍監。戊辰戦争では奥羽鎮撫総督府参謀となり、会津藩の武力征討を主張し、慶応4年閏4月20日福島で仙台藩士らに殺害された。34歳。周防(山口県)出身。本姓は中司。名は砥徳。字は他山。号は周陽。

お墓

場所:世良修蔵墓所(宮城県白石市福岡蔵本字陣場45-4)
墓正面:奥羽鎮撫総督参謀長州藩士世良修蔵之墓 撮影:2009年

地図

コラム

戊辰戦争で奥羽に散った官軍参謀・世良修蔵。その最期の眠りの場所には、興味深い歴史が刻まれています。

墓域には2つの墓があります。右が世良修蔵、左が勝見善太郎、松野儀助、従者繁蔵の合葬墓です。藤原相之助の「奥羽戊辰戦争と仙台藩 : 世良修蔵事件顛末」(1981年)が明かすところによると、当初は傑山寺へ埋葬しようとしたものの断られ、月心院(現在は廃寺)に埋葬されたとのことです。埋葬の場所は、境内の古椿の一本ある藪の傍でした。明治9年(1876年)4月、その眠りの場所は現在地へと改葬されることになったのです。

興味深いのは、この改葬が明治天皇の巡行に備えて行われたことです。月心院の藪の中に埋めてあった首級を掘り出して改葬し、その上に建碑したと記録されています。つまり、現在ある墓石は改葬時に作られたものであることがわかります。改葬が実施されたのは、明治9年6月に明治天皇の巡行が予定されていたからでした。このような契機がなければ、世良修蔵は藪の中で人知れず眠り続けていたことでしょう。

これにより、戊辰戦争の悲劇的な最期を遂げた官軍参謀が、天皇の行幸という歴史的な節目によって、ついに表舞台へと導かれ永遠の顕彰を受けることになったのです。

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東京都在住の40代男性です。2005年から墓マイラーを始めました。

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