解説
[1855~?]明治時代の華族。安政2年7月生まれ。武蔵岩槻藩(埼玉県)藩主大岡忠恕の5男。田沼意尊の養子。明治3年家督をつぎ、上総(千葉県)小久保藩知事となる。お墓
場所:谷中霊園(東京都台東区谷中7-5-24)(乙1号9側) 墓正面:空 撮影:2021年 |
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父コラム
「田沼意斉の墓はどこにあるのか?」―この素朴な疑問が、意外な歴史の一幕を明らかにしています。
多くの人が、相良田沼家最後の藩主である意斉の墓を、田沼家の菩提寺・勝林寺(東京都豊島区)に求めるでしょう。しかし実際には、そこに意斉の名は刻まれていないのです。
その理由は意斉の特異な経歴にありました。彼は岩槻大岡家から田沼意尊の養子となり、田沼家の家督を継ぎました。ところが明治6年、意尊の長女・智恵に家督を譲って田沼家を離れたのです。
では、意斉の最期の眠りの場所はどこなのか?その手がかりは、意外にもウィキペディアにありました。谷中霊園に、大岡忠恕の墓に隣接して建てられているというのです。
実際に現地で墓誌を確認すると、「大岡意斉 大正十四年九月三日歿」の文字が。意斉は大岡家の一員として、70歳でその生涯を閉じていたのです。
養子縁組、家督相続、そして離縁―。一人の武家の生涯に秘められた、明治という時代の激動が浮かび上がってきます。
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