解説
[1879~1959]明治から昭和時代の小説家。明治12年12月3日生まれ。永井久一郎の長男。広津柳浪の門にはいる。アメリカ、フランスに外遊、帰国後「あめりか物語」を発表する。明治43年慶大教授となり「三田文学」を創刊。大正5-6年の「腕くらべ」、昭和12年の「濹東綺譚」などおおくの作品をのこす。市井に隠遁し、反時代的姿勢をつらぬいた。27年文化勲章。29年芸術院会員。昭和34年4月30日死去。79歳。東京出身。東京外国語学校(現東京外大)中退。本名は壮吉。別号に断腸亭主人、金阜山人、石南居士。作品はほかに日記「断腸亭日乗」、小説「つゆのあとさき」など。お墓
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場所:雑司ヶ谷霊園(東京都豊島区南池袋4-25-1)(1種1号7側) 墓正面:永井荷風墓 撮影:2025年 |
肖像
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出典:国立国会図書館「近代日本人の肖像」 |
関連人物
父コラム
雑司ヶ谷霊園の一角で、三つの墓石が静かに並んでいます。『墨東綺譚』の作者・永井荷風の墓所です。左から父・久一郎の「禾原先生墓」、荷風自身の「永井荷風墓」、そして母・恒と弟・威三郎らが眠る「永井家之墓」と続きます。
秋庭太郎の著書『新考永井荷風』(1983年)にによれば、この配置には変遷がありました。もともとは「禾原先生墓」「永井恒墓」「永井荷風墓」の順。しかし昭和46年、弟・威三郎の死去を機に「永井家之墓」が建立されます。母の墓はこの合葬墓へと改葬され、荷風の墓は母の墓跡へ移動。こうして現在の姿が形作られました。
最も印象的なのは、荷風の理想と現実の乖離です。彼は「余死するの時、後人もし余が墓など建てむと思はば、この浄閑寺の塋域娼妓の墓乱れ倒れたる間を選びて一片の石を建てよ。石の高さ五尺を超ゆべからず。名は荷風散人墓の五字を以て足れりとすべし。」と望んでいました。
しかし実際には、父の眠る雑司ヶ谷霊園に「永井荷風墓」として建立。遺言から守られたのは、墓石の高さだけでした。この結末には、生涯を通じて理想と現実の狭間で生きた文豪の、最後の皮肉が込められているようです。
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