解説
[1836~1893]幕末の大名。天保6年12月29日生まれ。美濃(岐阜県)高須藩主松平義建の6男。松平容敬の養子となり、嘉永5年陸奥会津藩(福島県)藩主松平(保科)家9代。文久2年京都守護職につき、公武合体を推進。会津戦争に敗れ、明治元年鳥取藩のち和歌山藩に永預となる。13年日光東照宮宮司。明治26年12月5日死去。59歳。通称は銈之允。号は祐堂、芳山。肥後守。お墓
| 場所:松平家院内御廟(福島県会津若松市東山町石山) 墓正面:正三位松平容保之墓 撮影:2009年 |
関連人物
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会津藩主・松平容保。その墓は、かつて東京にも置かれていました。牧野登の「紙碑・東京の中の会津」(1980年)によると、容保は明治26年(1893年)12月5日に没し、9日に東京都新宿区の正受院へ埋葬されたとされています。その後、福島県会津若松市の歴代墓所へ改葬されることとなり、大正6年6月8日に上野発の汽車で発棺、翌9日に改葬されました。この際に墓碑の建設にも着手したと記されており、現在の墓石はこの改葬に伴って整えられたものと考えられます。
では、なぜ当初は正受院に埋葬されたのか。同書では、明治7年の時点で三男・愛彦霊神と四男・敬彦霊神がすでに正受院に葬られていたことが理由ではないかとされています。ただし、そもそも子どもたちがなぜ正受院に埋葬されたのかは明らかではありません。
さらに、照姫や松平容大も当初は正受院に埋葬されており、その後いずれも会津の歴代墓所へ改葬されています。東京に置かれ、やがて会津へ移された墓。その経緯をたどっていくと、容保と会津との関係の深さが見えてきます。
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