松平容保(まつだいら かたもり)

2021/04/15

2009年 大名 福島県

解説

[1836~1893]幕末の大名。天保6年12月29日生まれ。美濃(岐阜県)高須藩主松平義建の6男。松平容敬の養子となり、嘉永5年陸奥会津藩(福島県)藩主松平(保科)家9代。文久2年京都守護職につき、公武合体を推進。会津戦争に敗れ、明治元年鳥取藩のち和歌山藩に永預となる。13年日光東照宮宮司。明治26年12月5日死去。59歳。通称は銈之允。号は祐堂、芳山。肥後守。

お墓

場所:松平家院内御廟(福島県会津若松市東山町石山)
墓正面:正三位松平容保之墓 撮影:2009年

地図

肖像

出典:国立国会図書館「近代日本人の肖像」

関連人物

コラム

会津藩主として幕末の激動を生き抜いた松平容保。その最期の眠りの場所には、興味深い歴史が刻まれています。

当初は東京都新宿区の正受院に埋葬されていました。牧野登の「紙碑・東京の中の会津」(1980年)が明かすところによると、明治26年12月5日に没し、9日に正受院に埋葬されたそうです。その後、福島県会津若松市の歴代墓所へ改葬することとなり、大正6年6月8日に上野発の汽車で発棺、翌9日に歴代墓所へと改葬されました。その際に墓碑の建設にも着手したと記載されていることから、現在の墓石は改葬に伴い作成されたものであることがわかります。

興味深いのは、なぜ容保が正受院に埋葬されたかという点です。同書によると、明治7年に容保の三男・愛彦霊神と四男・敬彦霊神が既に埋葬されていたからではないかと推測されています。しかし、なぜ子供たちが正受院に埋葬されたのかは不明のままです。照姫、松平容大も当初は正受院に埋葬されていましたが、後に歴代墓所へと改葬されています。このことから、正受院は会津松平家にとって一時的な埋葬地としての役割を果たしていたことがうかがえます。

これにより、戊辰戦争の敗者として東京で没した最後の会津藩主が、故郷への帰還という悲願を果たし、ついに先祖代々の眠る歴代墓所で永遠の安息を得ることになったのです。

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東京都在住の40代男性です。2005年から墓マイラーを始めました。

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