解説
[1865~1950]明治から昭和時代の物理学者。慶応元年6月28日生まれ。明治29年母校帝国大学の教授となり、のち理化学研究所員をかね、長岡研究室を主宰した。36年土星型原子模型理論を発表。地球物理学、光学などおおくの分野で業績をのこした。昭和6年大阪帝大初代総長、のち学士院長。貴族院議員。12年第1回文化勲章。昭和25年12月11日死去。85歳。肥前大村(長崎県)出身。お墓
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場所:青山霊園(東京都港区南青山2-32-2)(1種イ12号1側) 墓正面:長岡累代墓 撮影:2025年 |
コラム
原子模型の基礎を築いた物理学者・長岡半太郎。その最期の眠りの場所には、興味深い歴史が刻まれています。一部の資料では「長岡半太郎妻箕作氏之墓」とある墓石が、長岡半太郎の墓として紹介されていますが、これは誤りです。この墓石は妻のミサのものなのです。半太郎の妻は箕作麟祥の三女であったため、墓石にこのように刻まれています。半太郎自身は、右側の納骨堂「長岡累代墓」に家族、子孫とともに眠っているのです。墓域には、納骨堂とミサの墓石以外に、「長岡治三郎墓」「先妣富永氏墓」「長岡宣男 同寛吉 之墓」と3つの墓石が建立されています。
興味深いのは、それぞれの墓石が物語る家族の歴史と、この一族の結束の強さです。「長岡治三郎墓」は父の墓であり、「長岡宣男 同寛吉 之墓」は夭逝した3男と7男の墓です。そして「先妣富永氏墓」は、おそらく母キクの墓と考えられます。先妣とは亡き母という意味であり、キクが富永家の出身であることからも、この推測は妥当でしょう。さらに注目すべきは、納骨堂には登代(後妻)、治男(長男)、正男(次男)、順吉(4男)、振吉(8男)らが眠っていることです。長男以外の家系も一緒の墓というのは珍しく、長岡家の特別な絆を示しています。
これにより、日本の近代物理学を切り拓いた科学者が、明治の知識人家系の結びつきと家族の深い絆を示す墓石群に囲まれながら、ついに多くの子孫とともに永遠の安息を得ることになったのです。
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