解説
[1647~1674]江戸時代前期の歌舞伎役者、座元。正保4年生まれ。初代中村勘三郎の次男。明暦3年父とともに京都へいき、御所で「新発意太鼓」を演じて明石の名をあたえられ、中村明石(初代)を名のった。万治元年2代勘三郎を襲名。若衆方で所作事を得意とした。延宝2年8月26日死去。28歳。幼名は勘二郎(一説に勘助)。別称に明石勘三郎。お墓
場所:大雲寺(東京都江戸川区瑞江4-11-5) 撮影:2014年 |
場所:回向院(東京都墨田区両国2-8-10) 墓正面:二世心譽宗月信士霊位 撮影:2014年 |
関連人物
父 弟コラム
歌舞伎界の名跡・中村勘三郎。その最期の眠りの場所には、興味深い歴史が刻まれています。江戸川区の「歌舞伎役者墓碑群」案内では、「明暦4年(1658)没の教誉道順は初代勘三郎、延宝3年(1675)没の三誉栄心は初代の次男で2代目勘三郎です。」と紹介されています。しかし、実際の記録が明かすところによると、これは誤りなのです。
興味深いのは、二代目勘三郎は延宝2年(1674年)に亡くなっており、延宝3年没の三誉栄心とは没年が異なることです。また、回向院にある墓碑には「三誉栄心信女」と刻まれていることから、三誉栄心は女性であることが明らかです。このことから、三誉栄心は初代勘三郎の妻、つまり二代目勘三郎の母である可能性が高いと考えられます。
これにより、公共機関からの解説でも誤りは多々あるため、真実を見極める注意が必要であることが、ついに歌舞伎界の名跡の墓を通じて永遠に教訓として残されることになったのです。
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