解説
[1854~1880]明治時代の大名。嘉永7年10月11日生まれ。信濃(長野県)松本藩主戸田光庸の9男。松平康英の養子となり、明治2年武蔵川越藩(埼玉県)藩主松井(松平)家2代。12年隠居し、先代康英の長男康義が跡をつぎ、17年子爵となる。明治13年4月14日死去。27歳。お墓
場所:吸江寺(東京都渋谷区東4-10-33) 墓正面:板倉家累代之墓 撮影:2019年 |
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川越藩の最後の藩主として知られる松井康載。その最期の眠りの場所には、興味深い歴史が刻まれています。多くの方は、彼の墓が川越市にある光西寺(松井松平家の菩提寺)にあると想像されるでしょう。しかし実際には、全く異なる場所に眠っているのです。明治19年(1886年)、松井康載は板倉花子との結婚を機に、板倉家(安中)へ入籍することになりました。これにより板倉家の家督を継ぎ、名前も「板倉勝観」と改めたのです。この経緯により、彼の墓は板倉家の墓所である吸江寺に建立されました。
興味深いのは、吸江寺にある墓誌に刻まれた「本覺院殿黙堂湛然大居士 大正十二年九月三十日歿 十五代勝観」という記述です。この墓誌からは、板倉家十五代当主としての彼の生涯がしっかりと記されており、川越藩主から板倉家当主へと変遷した人生の軌跡を読み取ることができます。
これにより、最後の川越藩主として歴史に名を刻んだ一人の武家の波瀾に満ちた人生が、ついに板倉家の墓所で永遠の安らぎを得ることになったのです。
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