解説
[1827~1898]江戸後期から明治時代の漂流民、教育者。文政10年1月1日生まれ。15歳のとき、土佐(高知県)宇佐港から出漁して遭難。アメリカの捕鯨船にすくわれ、同国でジョン=マンの名で教育をうける。嘉永4年帰国、6年幕臣となり、万延元年通訳として咸臨丸で再渡米。維新後は開成学校の英語教授。明治31年11月12日死去。72歳。著作に「漂客語録」「英米対話捷径」。お墓
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場所:雑司ヶ谷霊園(東京都豊島区南池袋4-25-1)(1種15号19側) 墓正面:中濱萬次郎之墓 撮影:2025年 |
肖像
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出典:国立国会図書館「近代日本人の肖像」 |
関連人物
子コラム
世界を駆け巡った土佐の漂流民・ジョン万次郎。その最期の眠りの場所には、興味深い歴史が刻まれています。成田和雄の『ジョン万次郎の一生』(1976年)が明かすところによると、万次郎はもともと東京都台東区の仏心寺に埋葬されました。興味深いことに、この墓は生前から用意されていたといいます。しかし大正12年(1923年)、その眠りの場所は雑司ヶ谷霊園へと移されることになったのです。
興味深いのは、墓石に刻まれた家紋が、円の中に三つの小さな丸が配された特徴的なデザインであることです。これは、万次郎自身がオリオン座からインスピレーションを得てデザインしたものだと伝えられています。一方、故郷の土佐清水市・大覚寺には、もう一つの「万次郎の墓」があります。これは、息子の漂流後、その生死も分からぬまま、母親が建てた墓でした。
これにより、母の深い愛情と祈りを今に伝える石碑が、ついに世界を駆け巡った息子の波乱に満ちた人生とともに永遠に語り継がれることになったのです。
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